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急に語り出すブログ

社会における時事問題、価値観、風潮、生き方などに対して思うことがあったときに語り出すブログです。書籍の紹介もありますので併せてご覧ください。

「人のためになりたい」という気持ちの行方

東日本大震災が発生して以降、「絆」や「助け合い」といった‛人と人とのつながり’を示す言葉が顕著に強調され始めたことは読者の皆さんもご存じの通りだ。

先の震災について思い返してみると、ボランティアや義援金といった具体的な行動で支援を行ったという人もいれば、何かしたいとは思いながらも何もできず事態を静観していたという人もいただろう。あるいは、そもそも何もする気がなかったという人もいたことと思うが、いずれにしても「全く関心がなかった」という人は総じてあまりいなかったのではないかと推察する。

私自身、こういうときに行動を示した場合とそうでない場合とでどちらの方が立派だとか、そういう比較にはあまり興味がない。実際、何かしらの行動を起こした人々に対しては素直に敬意を表したいところだが、では反対に何もしなかった人々は冷たく無関心で思いやりのない人間だったのかと言えばそれは違うと思う。

ある場面において「行動したかどうか」だけで、その人の内面を評価するというのは極めて狭義な話になってしまうし、そうした一面的な部分にしか視点が及ばないのだとしたらそれはむしろ想像力に欠けている。

その人がその場面でどういうことを考え、どのような選択肢の中で試行錯誤していたのか。自分自身にとっての物事の優先順位はどのような位置付けになっていたのか。震災に限ったことではないが、そういう個々人の繊細な部分というのは、本来もっと丁寧に洞察していくべきものではないかと私は考える。

今日の「絆」や「助け合い」といった言葉が果たして現代社会に合っているのかはいささか疑問ではあるが、震災を一つの例として見えてくるのは、他者の危機に対して「何かしてあげたい」とか「何かした方がいいのではないか」という気持ちが生まれる、人々の「献身的」な素質だ。

先で確認したように、行動によってそれを示すかどうかは人それぞれだが、他者の危機的な状況を心配し、何かできることはないだろうかと考え、仮にこれといった見返りがないとしても自分の労力や時間を相手のために提供したい(してもいい)という感覚が人間には備わっていると思う。

事実、ときとして「人はひとりでは生きていけない」という言葉が出てくるように、我々は様々な場面の中で誰かを助けたり、誰かに助けられたりしながら日々の生活を生きていることを認める必要がある。

身近で困っている人がいたら手を貸してみる。手を貸すとまではいかなくとも心配の声をかけてみる。そこに際立った派手さはなくとも、たった一つの言葉や行動が相手にとって大きな救いになることは少なくないだろう。自分が苦境に立っているときに誰かが力になってくれた、声をかけてくれたという経験を持つ人であれば、そのときに感じた希望が特に身に染みているのではないかと思う。

こういう付き合いによって築かれていく人間関係は率直に嬉しいものだし、単なる社交辞令的なやりとりとは一線を画す、人間同士の確かな厚みとして我々に希望を与えてくれる。ここで言う「厚み」とは一時的なものにとどまらない、今後の人生にとっての「厚み」にも直結していくわけであるから、「人のために何かをする」という人間の素質がいかに大切なものであるかということは何度でも確認したいところだ。

さて、前置きが少し長くなってしまったが、今回のブログでは、そうした人間の献身的な一面が我々にとって大きな希望であることを踏まえたうえで、あえて次のことについて考えてみたいと思う。

それはつまり、「人のために何かをする」ということは、実のところある種のエゴイズムと隣り合わせなのではないか、という問題である。

先述したように、人には「誰かのためになりたい」という献身的な一面が備わっていると考えられる。その対象が例えば、親友や恋人といった大切な相手になってくればより熱心な気持ちが湧いてくるだろう。それはとても自然で真っ当なことであるし、そうした気持ちの表現によって互いの関係がより確かなものになっていくときの経験が大きな希望になることも先に述べた通りである。

ところが、この「人のために」何かをするという行為を突き詰めて考えてみると、実のところそれは、少しの親切心だけで上手くいくほど簡単な構造にはなっていないのではないかという気がしてくる。

というのは、「人のためになりたい」という気持ちによって起こる行動の内側には、「人のためになりたい気持ち」と「人のためになっている自分自身に満足したい気持ち」の二者が同居していると思われるからである。

「人のために何かをする」ということは「ある種のエゴイズムと隣り合わせなのではないか」というかたちで私は問題提起をしているわけだが、ここで言うエゴイズムとはまさに「人のためになっている自分自身に満足したい気持ち」のことを指している。

何かしらの問題に直面している他者に自ら手を差し伸べ、その問題を改善していくために一緒に試行錯誤していくという関係性とはどのように維持されていくのだろうか。その点について考えてみると、簡易的ではあるが以下のような構造になるケースが多いのではないかと推察する。

<①問題・悩みを抱える他者に対する共感や心配➔②相手の手助けになるような行動を実行➔③問題が改善していく➔④相手から感謝される・状況が良くなっていく➔⑤自分の手助けが役立っていることを実感する➔⑥さらに手助けを継続していきたい気持ちが生まれる>

いかがだろうか。誰かのために何かをするということは、問題の内容はともかく一つの人間関係に飛び込んでいくことであるから、機械的な問題解決の話とは全く意味が違う。やはりそこでは、相手の反応のひとつひとつに敏感になってくるし、こちらの手助けが本当に役立っているのだろうかという部分にも神経を使うことになる。

だからこそ、相手からの感謝の言葉や状況の改善といった「目に見える反応」が大きな効果を持っているわけだが、そうそうスムーズに話が進むとは限らないことは読者の皆さんも経験的にご存じかと思う。

先の構造では、相手が感謝してくれているときや状況が良くなっているときは特に問題なく話が進んでいくと考えられる。注意すべきなのは、そうした「目に見える反応」が得られない時期に差し掛かったときである。

初めのうちは、相手もこちらの手助けを喜んでくれており、状況も良くなっているように見えていた。だが、あるときから感謝される機会は少なくなり、問題も思うようには改善していかない。何とか状況を変えたいとは思うが、どことなく社交辞令的で気弱な「ありがとう」を言われるだけで、どうすればいいのかわからない気持ちになってくる・・・。

現実に「人のために何かをしよう」と思ったら、よほど順調なケースでない限りはこのような事態に直面する可能性が高い。つまり、「こちらとしては力になっているつもりだが、手応えのある反応が返ってこない」という状況である。

本当の意味で「この人のためになりたい」と意気込んで始めたのであれば、まさにこういうときこそ自分の力量が試されていると言って間違いない。

しかし、何の手応えもない状態が続いているときに、焦らずに毅然とした態度を守るということが決して簡単でないこともまた事実だ。

上手く解決していけるのではないかと思われた問題が、あるときから停滞してしまう。初めは素直に感謝してくれていた相手からの反応が、だんだんと鈍くなってくる・・・。

そういうときに増大しやすいのが、今までは姿を見せていなかった「エゴイズム」の存在ではないだろうか。

自分には見返りがないとしても「この人のためになりたい」という純粋な気持ちで起こしたはずの行動が、実のところ「目に見える反応との交換」になっていたのではないかという嫌な事実が突如として浮かび上がってくる。

確かに、純粋な思いやりによって手を差し伸べた結果として、素直に「ありがとう」と言われたり問題そのものが改善したりすれば、これほど嬉しいことはないと思う。

しかし、感謝されたり頼られたりするときの「心地よさ」がなければ相手を助ける気持ちが続かないというのであれば、それはむしろ「自分のため」の人助けに過ぎないのではないかという気がしてくる。

「人のためになりたい気持ち」は利益を目的としない純粋な思いやり・共感によって生じるものだと思うが、これを継続させる条件として「目に見える反応」を要求するとき、その行動の最上位にあるのは「人のためになりたい気持ち」ではなく「人のためになっている自分自身に満足したい気持ち」である可能性が高い。

こうした点については、誰かの役に立つことによって自分の価値や人間性が向上するという意味もあるのだから「自分のため」という部分が全てエゴイズムとは言えないのではないか、という指摘をする人もいると思う。これはまさしくその通りで、私としても誰かを助けることで自分自身の人間としての質が磨かれていく経験がとても貴重であることについては全く異論がない。

一連の主張の中で示したいのは、「人のためになりたい」という純粋な気持ちで始めたことであっても、いつの間にかその目的が「自分自身の満足を満たすこと」にすり替わってしまう危うさを誰もが持っているということである。

こういう危うさを意識することなく、何となく場当たり的な親切心だけに頼っていると、「目に見える反応」が得られない時期に直面したときに不満だけが蓄積されてしまい、問題の本質に向き合うことができなくなる。

思うように事態が良くならないことにイライラし始め、イライラしながらも手助けしようとしているこちらに対して感謝してこない相手のせいで余計に腹が立ってくる、という状況に陥ってしまうイメージだ。

こうした状況の中では、思わず言ってしまいそうになる一つの台詞がある。それはずばり、「〇〇してやってるのに」という相手への恩着せを前面に出した一言である。

状況が良くならない、相手からの感謝が返ってこない。そういうときに多少なりとも不満が出てきてしまうのは自然なことと思う。それを頭から否定できるような人間はおそらくほとんどいないだろう。

しかし、そうした内なる不満が「〇〇してやってるのに」という短い言葉によって出てきそうになったときは状況的にかなり危ういと考えるべきだろう。というのも、この「〇〇してやってるのに」という言葉は、上手くいかない状況を憂う気持ちからではなく、「〇〇してやってるのに、お前はなぜ〇〇なんだ」という相手への攻撃的な意志によって発せられているからだ。

先述したように、「人のために何かをする」ということは、内容が何であるか以前に、一つの人間関係に飛び込んでいくことである。そのために、問題に対して自分と相手が一緒になって向き合うことが何よりも重要になってくることは言うまでもない。

ところが、「〇〇してやってるのに」という言葉の内側には、助けたかったはずの「相手」の存在が消えており、期待した反応が返ってこないことにイラついている「自分」だけがいる。

これでは、「この人のためになりたい」という真摯な気持ちによって問題に立ち向かう人間の姿勢とは対極にあると言わざるを得ない。「一緒になって向き合う」という本来最も重要な部分が置き去りにされてしまっている状態である。

その背景には、「私は困っているあなたをわざわざ助けてあげているんだよ」というある種の上下関係が隠れているように思う。助けてあげている自分が「上」で、助けられている相手は「下」というわけだ。この構造が定着してくると、「目に見える反応」を相手に強要するのは時間の問題と言えるだろう。

重ねて確認しておきたいが、期待した通りに事が進んでいかないときに不満を感じること自体は何もおかしいことではない。だが、すぐに「〇〇してやってるのに」という言葉を言ってしまうとか、自分が優位に立っていないと気に入らないというのであれば、それは本当の意味で相手を救いたいとは思っていないか、「自分自身の満足」を満たすことが最大の目的になっているかのどちらかだと思われる。

逆に言えば、こうした一連の危うさをあらかじめ自覚していれば、「目に見える反応」がなくなったときでも、落ち着いて自分と相手の状況を判断できるのではないかと思う。

もちろん、「人のためになりたい気持ち」と「人のためになっている自分自身に満足したい気持ち」のバランスを上手く保つことは容易ではないが、自己満足に陥ってしまう可能性に注意を向けるだけで、行動の質にかなりの差が出るのではないだろうか。少なくとも、「〇〇してやったのに」という上下関係をチラつかせる言葉で相手を突き放すよりは、ずっと前向きな展開が望めるはずだ。

その意味で、「人のためになりたい」という意志で始めたことをやり遂げるためには、「自分に何ができるか」という方法論だけでなく、その過程で生じてくる不満や苛立ちに翻弄されない冷静さが自分の中にあるかどうかが非常に重要になってくる。

不満を持っている自分自身を認めながらも、「いや、待てよ」と立ち止まる勇気をもって今の状況を見直してみる。いつの間にか自分自身の満足が独り歩きして、何か見失っていたことがないか考えてみる。相手を傷つける言葉を発しそうになったとき、その言葉を発するのを一歩こらえて、攻撃的な感情に支配されていないかを自分に問いかけてみる。

そうした過程を繰り返し経験していく先にこそ、「人のために何かしよう」と懸命になっている自分自身の人間的魅力の向上があるのだと思うし、それくらい真剣な気持ちが湧き上がってきたときにこそ、相手の心に届く確かなものが生まれるのだろう。

臨床心理学者の河合隼雄先生は、著書『こころの処方箋』の〔100%正しい忠告はまず役に立たない〕という章の中で次のように述べている。

ひょっとすると失敗するかも知れぬ。しかし、この際はこれだという決意をもってするから、忠告も生きてくる。己を懸けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる。

これは、ただ正しいだけの「忠告」では人の問題を解決することは出来ないという事実を確認している言葉だが、ここで述べられている事は「誰かのために何かをする」ときの行動の全てに共通する教訓になっているように思う。

「人のためになりたい」「君の力になりたい」などと恰好良いことを言っていても、都合が悪くなった途端に自分が可愛くなってしまう、相手が助けを求めているのに自分はいつまでも安全な場所に立っているだけ、ということならばそれはあくまで「条件付きの人助け」に過ぎない。

自分自身がまず一定の「余裕」を確保したうえで他者の手助けをした方が、助ける側としては居心地が良いという心理はわからなくはない。

しかし、いざという場面で相手の力になるために必要なものがあるとするなら、それは自分自身が「余裕」に守られた場所など惜しまずに飛び出して、苦境に倒れそうになる相手の全てを受け止めに行く勇気だと思う。河合先生の言う「己を懸ける」「責任をとる」という言葉の意味も、おそらくそういうところから生じてくるのではないかと私は考えている。

そう考えると、「助けてあげている」などと偉ぶっているうちは実のところ大したことは出来ていないのだろうし、いつまでもそれが変わらないのだとしたら「人のためになりたい」という気持ちそのものがどこかで歪んでいないかを自分自身に問い直す必要があると思う。

こういうところに「人のためになる」ことの難しさがある。そもそも、人の抱える困難や苦悩を解決しようと思ったら一日や二日でどうにかなる話ではない。何をもって解決と言えるのかもすぐにはわからないし、解決に至るまでにはかなりの時間が必要になるかもしれない。事態が上手く進展せずにだんだんと不満が募ってくれば、嫌な台詞を言ってしまいそうになる人間の弱さも見え隠れしてくるだろう。

「人を助けてあげている自分は立派だ」と思って自分の優越を満たすことは簡単だが、その先に行くことは誰にでも出来ることではない。

しかし、そうした紆余曲折の中にあってもなお、相手の手を取ることを途中で投げ出すことはないという確かな決心を感じたとき、それこそが本物として活きてくる。

その正体は、例えばあるときは「思いやり」で、あるときは「愛情」であったりするのかもしれないが、それが何であれ人間の希望とはそういうところから生まれるのだと思う。

いつも自分の心の中にあって、ときとして苦境の波に流されそうになる自分を勇気づけてくれるものこそが本当の希望だ。

冒頭で述べたように、「絆」や「助け合い」というヒューマニズムの言葉が頻繁に使われる風潮になってきているが、実際に我々が生きる中で「人のためになりたい」と心から思えるような機会はむしろ限られているだろう。

数少ないかもしれないその機会の中で、小さくとも確かな希望の芽が見え始めたときに初めて、「人のためになる」ということの意味が少しずつわかっていくのではないかと思っている。

 

 

 

あなたにとっての「ともだち」とは

最近テレビをつけるとよく見かけるのがFacebookのCMだ。CMを流し始めたということはFacebookの運営側もいよいよ怪しくなってきたのだろうかと勝手に想像してしまったが、「あなたはだれかのともだち」というフレーズを盛り込んだこちらのCMはどうやら評判が思わしくないようだ。

Twitter上では「友達友達ってうるさい」「気持ち悪い」「人によっては見るのが辛い」といった辛辣なコメントを何度か見かけたが、実際にこのCMを見たときは「あーなるほどな」という印象で、それらのコメントの意味を察するに至った。

そこで考えてみたくなったのが、我々(全員ではないにしても)は、このCMに対してなぜ否定的な感想を持つのだろうか?という素朴な問題。CMの映像を思い返してみると、楽しそうに戯れている若い男女、新たな命の誕生、体調を崩した友人を心配するシーンなどが連続的に描写されており、人と人とのつながりをポジティブな映像として仕上げようした意図が見て取れる。

これらを素直に受け取るのであれば、人間の持つ明るさ、希望、優しさといった肯定的な要素を見出すことが出来るし、それらを「シェア」することこそFacebookの醍醐味なのだという表現に展開していくことも特におかしくはないと思う。

ところが、だ。そういったポジティブな表現とは裏腹にというか、ポジティブな表現を意図したからこそむしろ際立ってしまう「白々しさ」がこのCMには不気味に漂っているのではないかと考える。

先に紹介した辛辣コメントのひとつひとつからも察せられるように、このCMに対して感じている違和感のポイントというのはおそらく人によって微妙に異なっていると思われるが、私個人としてはまず「それって友達なのか?」という感覚がある。

「ともだち申請」なるものを送信して、相手が「承認」ボタンを押せばその瞬間から互いはFacebook上での「ともだち」関係が成立する。そのあとは、自分の私生活がいかに充実と幸福に満ちているのかを延々と報告することで閲覧者からの「いいね」を獲得し、悦に入るとか入らないとか。それが事実だとしたら「Facebookなんて結局は承認欲求の化身じゃねーか!」という野次を飛ばしたくなる人も相当数いるのではないかと考えてしまうが、そうした特有の環境に実は疲弊しているユーザーも少なくないだろうから、とりあえずは「お疲れさま」という言葉をもって私は距離を置きたいと思う。

さて、Facebookに対する好き嫌いの話はいいとしても、「ともだち」という存在をどう位置付けていくかという問題は人生上において実に大きいと言って良いと思う。「あなたはだれかのともだち」と言われると一見ありがたいような、温かいような印象がないわけではないが、正直なところ、相手との関係が「ともだち」かどうかを決めているのは自分であって、これを第三者が規定しようとするのは極めて気味の悪い話だ。

もちろん「あの人もこの人もみんな友達!」という感覚もなかなか平和的で良いと思うが、とはいえ人間関係は複雑になっているから、自分に近づいてくれる相手もいれば逆に遠ざかっていく相手もいるというのが正直なところだと思う。「ともだち」とはまさにこういう人間関係の中で生まれた「特定の他者」に他ならない。

人間関係における交際範囲はかなり個人差があるにしても、自分にとっての「ともだち」は誰なのかを考えたときに、頭に浮かぶ相手というのはおそらく限定的なのではないかと思う。それはつまり、自分にとって「ともだち」に入る他者と入らない他者とを頭の中で明確に区別しているということでもある。

「Aさんは友達だけどBさんは友達ではない」というと一見冷たい話に思われるかもしれないが、親密の度合いが異なるのは当然であるし、逆に言えば、本来「ともだち」とはそれくらいに特別な存在になっているはずなのではないかと考える。

そういう観点から総じて考えてみると、やはりFacebookがいうところの「ともだち」というフレーズはどうも希薄に見えてしまうし、「ともだち」という単語そのもののイメージに頼りすぎてしまっている側面が否めない。

それはいわば「友達という概念の一方的な押し付け感」とか「友達という存在の扱いの軽さ」のようなものに起因しているように思えるのだが、「あなたはだれかのともだち」というCMに疑問を呈した人々の反応は、ともすればSNSのつながりと現実の人間関係が必要以上に接近してしまうことへの危機感とか苛立ちの表明にもなっているのではないかと推察する。

 SNSなるものがここまで一般化してきた現代社会では、多くの人とつながりを持つことが実に簡単なものとなった。事実、SNSの存在は重要・便利なツールになっているし、そうした「つながり」の普及の中に「ともだち」という人間味あふれるワードを盛り込むことで日常を「シェア」する交流をさらに促進しようという話は、宣伝側の考え方からすれば特別なものだとも思わない。

しかし、先にも述べたように人間関係とは実に複雑で、親しい相手もいればそうでない相手もいる。親しいと思っていたけど実は根本的な価値観が違っていた、あまり良く思っていなかったけどあるとき見直した、というケースも往々にしてある。あるいはそもそも親しい相手がいない、親しくなりたいのに心を開けない、もともと他人を信用してない、という人だって沢山いることだろう。考え出せばキリがないくらい、人と人の関わり方は実にいくつものかたちがある。

人と出会って、近づいたり遠ざかったり、許せたり許せなかったり、その時々の喜怒哀楽の中で互いの「関わり」が生まれたり消えたりする。そういう極めて面倒で愛すべき試行錯誤の中で生きているという事実を、私達は毎日のように確認しているはずではないか。

だからこそ、SNSがいかに浸透しようとも一つ一つの人間関係が矮小化されたり簡略化されたりすることがあってはならないと思う。

 

「あなたはだれかのともだち」

楽しくて明るくて優しそうな映像が目に映る。

 

そういう描き方もあるのかもしれない。だけど私は問い続ける。

「それって友達なのか?」と。

 

 

自分の中のご都合主義

車を運転しているときにときどき見かけるのが「練習中」のプレートを着けた教習車。

読者の皆さんはこうした「教習車」と遭遇したときにどんなことを感じているだろうか。

教官の視線を気にしながら慎重にハンドルを握る教習生の気持ちを想像すると、何となく応援したくなるものだが、それとは別に「やっぱり教習車は遅いな」とか「いくらなんでも慎重すぎるだろ…」というような感想を持つ人はおそらく少なくないだろう。

私の場合「遅いな!」とか「もうちょい速く行ってくれ!」とまでは思わないが、とはいえ心のどこかで「さすがゆっくり走るなぁ(笑)」といった具合で少し意地悪な目線を送ってしまう傾向はある。

 ではなぜ、運転慣れしたドライバーは教習車に対してこういう印象を持ってしまうのだろうか?

一般道において、教習車は確かに遅く見えてしまうし慎重すぎるように見えてしまう。だが、それはあくまで「見えてしまう」だけの話であって、ご存知の通り教習車側には何も落ち度はない。守るべき法定速度を守り、安全のために必要な運転所作をひとつひとつ遂行しているだけなのだから、むしろ「これこそがドライバーの手本」というくらいの気概を持って走って頂いてもなんら差し支えないはずだ。

それにも関わらず、周囲のドライバーが「やっぱり教習車は遅い」だの「慎重すぎる」といった具合で冷ややかな態度を見せるのは、まるで道理が合っていない。

そう考えると、というかどう考えてもそうだが、道路上で教習車が目立つことの原因は教習車それ自体ではなく、ほとんどのケースは「周囲のドライバーがかつては守っていたはずの交通規則・安全確認を怠るようになった」「運転ルールを順守する教習車の真面目さが気に食わない」のどちらかに起因していると推察される。

運転に慣れたドライバーに対して、「法定速度を守り安全に配慮しながら走っているだけだ」と説明しても、おそらく「いやいやまぁそうなんだけどさ(笑)」という半笑いの反応が返ってくるのではないかと思う。

 

さて、前置きもそこそこに、私はこの「いやいやまぁそうなんだけどさ(笑)」という感覚をここで問題にしたい。この構図には、「ルールがあることは知っているけれど、それを守っていたら不便だし守らなくてもそこまで問題ないから大丈夫でしょ」という人間の心理がはっきりと見える。

それはつまり運転で言うところの「慣れ」であり、教習車に対して「さすがゆっくり走るなぁ(笑)」と思ってしまった私のことである。教習車に感じる違和感が大きければ大きいほど、そのドライバーは本来のルールから逸脱していることを意味する。

ではそうしたときに教習車を見習って「自分も安全運転だ!」と初心に帰る人がいるのかというと、これはおそらくほとんどいないだろう。安全運転とまではいかないにしても危険ではないレベルで運転することが現実的には都合が良い、というスタイルが大多数によって支持されているからだ。

つまり、道路上で機能しているのは道路交通法ではなく、そうした大多数の都合や感覚ということになる。「そっちの方が現実的なんだからしょうがないだろ」と言う人もいるのかもしれない。私にも似たようなところはある。

だが、それは少し恐ろしいことだな、と最近になって思う。

「ルールは確かにある。だけどそれを守っていたら不便。だから多少は逸脱しても仕方ない」という感覚を他の事例に置き換えてみたらどうか。

真っ先に思いつくのはブラック企業の問題だ。過酷な労働環境を強いたあげくに心身の健康等について何ら責任を果たすことなく労働者を使い捨てにするという社会問題であるが、やはりそうしたモラルが崩壊した企業というのはほぼ間違いなく労働基準法を無視している。

なぜそうした事態が生じてしまうのかといえば、言うまでもないがそうした方が企業側にとっては都合が良いからだ。そして、その根底にはきっと「労働法なんて守ってたらやってられないよ」という感覚があるはずだ。そういう考えの経営者に労働法を丁寧に説いたところで、おそらく「いやいやまぁそうなんだけどさ(笑)」という半笑いの反応が返ってくるのではないかと思う。

 

 つまり、そういうことだと思う。

 

別に道路交通法を守らないことがブラック企業経営者の考え方とイコールだ、という話ではなくて、「いやいやまぁそうなんだけどさ(笑)」という感覚でルールよりも利益を優先してしまう人間の「ご都合主義」が、ときとして自分の中にも潜んでいるのかもしれないという目線を持つことは大事なのではないかという問題提起だ。

あるときは「ルールを守らない者を許さない」のにあるときは「ルールを守らない自分を許してほしい」というエゴイズムのようなものはおそらく誰にでもある。

本来のルールよりもそこにいる集団や個人の都合が優先権を持ち始めると、やはり何かしらの看過できない問題が生じることは皆さんにもご経験があると思うが、では果たして、自分自身はそうした問題の原因とは無縁だと言い切れるのかどうか。

それを、もう一度考えてみたいと思った。

 

本の紹介:『ぼくらの未来のつくりかた』(家入一真著,双葉社)

『ぼくらの未来のつくりかた』は、東京都知事選の出馬から日に日に存在感を増してきている家入一真さんが、その選挙経験や自身の価値観をもとに見えてきた社会・政治のこれからを語った一冊。

ぼくらの未来のつくりかた (YOUR BOOKS 01)

ぼくらの未来のつくりかた (YOUR BOOKS 01)

 

「ネットを使いきる」ことと「若い人の政治参加を喚起する」ことを最大の軸にしていたという一連の選挙活動は、家入さん自身がこれまでに経験してきた「会社・プロジェクトづくり」の要素が凝縮されていたそうで、「こんなに楽しいことを、ぼくらは今まで政治家に独占させてたのか!」と思うほどに収穫の大きな時間になったという。

それと同時に家入さんは、初めての選挙を通して見えてきた日本の古いシステムや非効率な作業にともなう問題、自身に寄せられた厳しいメッセージについても触れている。誰にでも関わりがあるはずの「政治」がなにか特別なものとして遠ざけられてしまう現状に対する指摘や、様々な批判を浴びながらも「ぼくら」という言葉を使って選挙を戦い抜いた家入さんの真意はとても興味深い。

今回の東京都知事選の出馬によって、家入一真さんという人に少し政治的な側面が加わったと言えるかもしれないが、ビジネスにしても政治にしても家入さんの行動の根本にあるのは「みんなの居場所をつくりたい」という一つの思いだ。

家入さんは、15際から20歳までひきこもりだった自身の経験を「居場所のない5年」として、「この時期が、今の僕の根っこになったのは間違いない」と語る。「居場所」というものに対する強烈な欲求が生まれた時期だったという。

おそらく、この「居場所」という言葉の中に家入さんの行動が集約されているのだと思う。それはあるときはビジネスであり、あるときは政治的な何かになるのかもしれないが、どのような形であるにせよ「居場所をつくりたい」という思いは常にそこにある。

そうした家入さんの「根っこ」の部分は「もっともっと世の中に余白と多様性をセットしていきたい」という言葉のなかに反映されているように思う。5年間のひきこもり経験の中で感じた「さみしさ」は今も家入さんの中に残っているそうだが、いわゆる「普通」から疎外されてしまったときの苦痛や孤独感というのは誰しもにとって全く他人事でない時代になってきている。それにも関わらず、どうしようもなくなったときに逃げられる場所はほとんどなく、あるのは世間の偏見だけという悲惨な現実がある。

そうした現状に家入さんは「ぼくらは新たな居場所を作らなければならない」と語る。家入さんは、選挙のための事務所を開いたとき「自分とは違う人間を認めて、それができる自分のことも素敵だと思ってください。それをできる場所が、ぼくのいう‟居場所”です」と話したという。

なぜそうなっているのかも良くわからないまま「標準化」されたこの世の中では、何かにしがみついていないとあっという間に突き落とされるのではないかという切迫感が人の心を容赦なく追い詰める。年間3万人以上が自殺してしまうことの背景にそうした張りつめた社会の圧力が関連していることは想像に難くない。

何かに行き詰って心と体が疲弊したとき、自分ひとりで毎回それを打開できる強さを持った人はそうそういないだろうし、それは「甘え」だとか「弱さ」ではなく一つの人格を持った人間として全く自然なことだと思う。

「生きづらさ」を前にして自分の行先が分からなくなったとき、心休まる居場所があれば、どれほどの希望になるだろう。それこそが、いよいよ暗雲立ち込めるこの社会に必要な「余白」であり「居場所」なのだと感じる。

家入さんのもとには、普段はひきこもりで家から出られないと話す人や精神的な病気を抱えている人も集まるという。

一人ひとりの抱える背景や事情は違う。ときとして死ぬことを考えてしまうことも決して冗談にならない世の中。

でもおそらく、生きている限り人はたとえ小さくとも何かしらの希望を掴もうとしている。行先はわからないけれど、どんなときでも互いを認め合える「居場所」が一つでもあれば、毎日の景色は少しずつ明るくなっていくのだと思う。

 

 

本の紹介:『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ著,千野栄一訳,集英社文庫)

ミラン・クンデラの傑作として知られる『存在の耐えられない軽さ』は、「プラハの春」に揺れる社会的背景の中で繰り広げられる男女の恋愛と生き様を描いた作品。 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

有名な表題でもお馴染みの本作は、裏表紙いわく「究極の恋愛小説」と紹介されているが、外科医トマーシュ、恋人のテレザ、愛人のサビナの主要3者が見せるそれぞれの恋愛劇と人生観は、「恋愛小説」という一つの枠では収まりきらない独特な威力を放つ。

以前の記事で紹介した『アドルフ』,『肉体の悪魔』,『マノン・レスコー』 などの作品は理性ではコントロールできない男女の情熱的恋情とその反動とも言うべき激しい哀切が凝縮されているのに対して、『存在の耐えられない軽さ』では、各人物が確かに恋愛に身を置きながらもどこか最後の一歩を踏みとどまっているような表情を見せているところが興味深い。

本作における恋愛劇は「この恋愛のためならいかなる犠牲も惜しくない」という種類とは一線を画すもので、いわば「恋の情熱」と「内なる冷静さ」がどこまでも対等な関係を持ち続けているような不思議な静けさを漂わせる。

何かを犠牲にしてでも愛する気持ちを止められない男女の心理描写は「恋愛小説」の醍醐味と考えられるが、本作におけるトマーシュ、テレザ、サビナの3者は恋愛以前にすでに何かを失ってしまったような哀切を見せており、恋への情熱というよりは、たどり着いたこの愛を各人物がどのように位置づけていくかというシリアスな心情が打ち出されていると言える。

その意味では、本作の実際的なテーマは恋愛それ自体ではなく、一人ひとりが見せる哲学的な世界観にあるのではないかと考える。

つまり、3者にとっての恋愛は自己認識のための手段に過ぎない側面を持っていて、最大の関心はその先で自分の人生に何が残り、何が残らないのかを知ることに向けられているように思う。

恋愛によって満たされるもの、満たされないものを静かに見出しながらそれぞれの運命を生きていく3人の男女。

恋を求めながらも時として哀切を極める瞬間の中で見え隠れする「重さ」と「軽さ」の対比。

そうした掴めそうで掴めない哲学を男女の恋愛に浸透させたこの作品のタイトルが『存在の耐えられない軽さ』とは実に見事と言う他ないだろう。

本作では、外科医トマーシュの派手な女性交遊を筆頭にして「性」に関わる表現も少なくないわけだが、それが読者にとって単なる快楽主義的な行動に映らない点にこそ、『存在の耐えられない軽さ』ならではの静かな知性を見出すことができると考える。

人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのだろうか?(第Ⅰ部 「軽さと重さ」より)

ページをめくりながら数々の哲学を出逢うとき、この本は「恋愛小説」という小さな枠を飛び越えていくだろう。

 

 

「本好きへの100の質問」にトライ

トピック「本好き」について

001. 本が好きな理由を教えてください。

価値観が柔らかくなる。

実社会に欠けた自由を感じられる。

ときどき気持ちが救われる。

002. 記憶に残っているなかで、最も幼い頃に読んだ本は?

ファーブル昆虫記
003. はじめて自分のお小遣いで買った本を教えてください。また、その本を今でも持っていますか?

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

 

 今でもあります。

004. 購読している雑誌はありますか?

なし。
005. 贔屓にしているWEBマガジンはありますか?

なし。
006. 書籍関連のHPの、どんなところに注目しますか(書評や感想文等々)。

書評の中で読者の関心を集めている部分はどこかという点。
007. 最近読んだ本のタイトルを教えてください。

マノン・レスコー (新潮文庫)

マノン・レスコー (新潮文庫)

 

 

008. ベストセラーは読む方ですか?

ベストセラーという理由で読むことはない。
009. 御贔屓は、どんなジャンルですか?

ミステリ、戯曲、海外文学。
010. あなたは活字中毒ですか?(それはどんな症状としてあらわれていますか)

いいえ。

011. 月に何冊くらい読みますか?

3~5冊。気分による。
012. あなたは本の奥付をちゃんとチェックしますか? するとしたら、その理由は?

一応チェックする。それを含めて読了だから。
013. 文庫本の値段として「高い」と感じるのは幾らからですか?

700円以上。
014. 本は書店で買いますか、それとも図書館で借りますか。その理由は?

書店かAmazon
015. あなたは「たくさん本を買うけど積ん読派」それとも「買った本はみんな目を通す派」のどちらでしょう?

目を通すために買ってますからもちろん後者でしょ。
016. 行き場に困ったとき、とりあえず書店に入ってしまう。そんなことはありますか?

たまにはある。
017. 馴染みの書店・図書館に、なにかひとこと。

海外文庫を増やそう。
018. あなたは蔵書をどれくらい持っていますか。

蔵書??
019. 自分の本棚について、簡単に説明してください(“小説が多く実用書が少ない”等々)。

小説9割、教養1割かな。
020. 本棚は整理整頓されていますか。

積んでるだけですね。

021. 既に持っている本を、誤って買ってしまったことはありますか? その本のタイトルは。

ないです。
022. 気に入った本は、自分の手元に置かないと気が済まない?

いいえ。
023. 本に関することで、悩んでいることは?

単行本と文庫本の値段の差。
024. 速読派と熟読派、あなたはどちらに該当しますか。

熟読派。
025. 本を読んでいて分からない言葉があったとき、意味を調べますか?

辞書を引くか検索する。
026. 本を読む場所で、お気に入りなのは?

自室。
027. あなたは今、めったに読むことのない分厚い本を前にしています。ところでこの本「すごくおもしろい」という、いつもは信頼できる情報を得たはずなのに、最初の部分がやたらにつまらない。そんなときどうしますか?

途中まで読んでみて判断する。でも多分、つまらなくても最後まで読んでしまう。
028. 本を読むときに、同時になにかすることはありますか?(例:お茶を飲む、おやつを食べる、音楽をかける)

ありません。
029. 読みかけの本にはさむ栞は、何を使っていますか?

付属の栞。
030. ブックフェアのグッズを新たに誕生させることになりました。あなたが「これなら欲しい」と思うグッズを考えてください。

海外文学名言集。

031. 無人島1冊だけ本を持っていけるとしたら、何を選びますか。

 

終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)

 

 

032. 今、最も欲しい本のタイトルをどうぞ。

 

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 

 

033. 生涯の1冊、そんな存在の本はありますか? その本のタイトルは。

 

人間ぎらい (新潮文庫)

人間ぎらい (新潮文庫)

 

 

034. 何度も読み返してしまうような本はありますか? その本のタイトルは。

 

チルドレン (講談社文庫)

チルドレン (講談社文庫)

 

 

035. おきにいりの作家ベスト5と、理由をお願いします。

モリエール=ユーモアと風刺のミックスが見事。

ラディゲ=若さが放つ得体の知れない凄味。

カミュ=「異邦人」のインパクト。

伊坂幸太郎=登場人物の魅力と粋な構成。

森見登美彦=モテない男を描く天才。


036. 好きなシリーズ物はありますか?

シリーズものをほとんど読まないので。
037. 本を選ぶときのポイントを教えてください。

作者、ページ量、文章との相性。
038. 翻訳小説は、訳者にこだわる方ですか。

こだわったことはないが訳者によって読みやすさはかなり差が出るかも。
039. 信頼できる書評家は誰ですか?

特にいない。
040. 絵本は好きですか? 好きな方は、好きな絵本のタイトルを教えてください。

もう長いこと読んでない。

041. 本は内容を先に読む方ですか、それとも、あとがきから読む方ですか?

もちろん内容が先。
042. 読みたいのに読めない本はありますか? その理由は。

もしあるとしたらどこに行っても売ってない本でしょうね。
043. ノンフィクション作品のおすすめを教えてください。

 

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

 

 

044. あなたの好きな恋愛小説を教えてください。

アドルフ (岩波文庫)

アドルフ (岩波文庫)

 

 

045. 泣けてしまった本を教えてください。

泣いたことはないですね。
046. 読んでいるだけで、アドレナリンが分泌されてくるような本は?

アドレナリンは出ないでしょ。
047. もう2度と読みたくない本は、ありますか?

ないです。
048. 良くも悪くも「やられた!」と思った本はありますか?

仮面山荘殺人事件 (講談社文庫)

仮面山荘殺人事件 (講談社文庫)

 

 

049. 読む前と読後感が違っていた(食わず嫌いだった)本は?

東野圭吾全般。
050. 子供にプレゼントしたい本のタイトルを教えてください。

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

 

051. お気に入りの出版社と、その理由を教えてください。

特になし。
052. それでは苦手な出版社は? その理由を教えてください。

特になし。
053. この本で読書感想文を書いた、という記憶に残っている本はありますか? あれば、そのタイトルは?

「友情の杯」(星新一
054. 装丁が気に入っている本を教えてください。

肉体の悪魔 (新潮文庫)

肉体の悪魔 (新潮文庫)

 

 

055. あなたは漫画が好きですか?

普通。
056. お気にいりの漫画家ベスト5と、好きな作品について教えてください。

手塚治虫ブラックジャック
057. サイン本を持っていますか?(タイトルと作家名は?)

持ってない。
058. 持っているのを自慢したい。そんな本はありますか?

ないです。
059. 東・西・南・北……漢字を選んで、浮かんだ本のタイトルを書いてください(実在する書名に限ります)。

タイトルは浮かばないけど、内容で言うなら

砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

 

 

060. 短編小説集を買ったら、全部読みますか? それとも、その中から気に入った作品しか読みませんか?

全部読む。

061. 憧れのキャラクターを教えてください。

憧れはまだないです。
062. 印象的な女性キャラクターを教えてください。

マノン 『マノン・レスコー』より。
063. 印象的な男性キャラクターを教えてください。

アルセスト 『人間ぎらい』より。
064. 先生といえば?

夏目漱石の『こころ』
065. 探偵といえば?

伊坂作品の黒澤
066. ベストカップル、ベストコンビといえば?

伊坂幸太郎『重力ピエロ』の兄弟。
067. 本に登場する場所で、行ってみたいと思うのは?

荻島 伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』より
068. 子供の出てくる作品といえば?

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ
069. 動物の出てくる作品といえば?

動物農場 (角川文庫)

動物農場 (角川文庫)

 

 

070. これまで出会った中で、もっとも感情移入できたキャラクターは?

アドルフ コンスタン『アドルフ』より。

071. 本の登場人物になれるとしたら、誰(何)になりたいですか?

陣内 伊坂幸太郎『チルドレン』より
072. 夢中になった作家、現在進行形で夢中な作家の名前を教えてください。

モリエール
073. 1日だけ作家になれるとしたら、誰になりますか。

ランボー
074. 編集者になるとしたら、どの作家の担当になりたいですか?

桐野夏生
075. 好きな作家に原稿を依頼するとしたら、どんな作品を希望しますか。作家名とジャンルを教えてください。

モリエールに日本社会の闇を斬ってもらいたい。
076.「あの作家に、これだけは言いたい」……ひとことどうぞ!

森見登美彦さんへ。実体験混ざってる?
077. 紙幣の肖像、私ならこの文豪を選ぶ!

フランツ・カフカ
078. 文章と作家のイメージが違っていた、そんなことはありますか? 

作家に対するイメージが勝手なものだから何ともいえない。
079. あなたにとって、詩人といえば。

ランボーボードレール
080. 家族……この単語から連想した本のタイトルを書いてください(実在する書名に限ります)。

カフカ『変身』

081. 本を捨てることに抵抗がありますか?

捨てたことがない。
082. これだけは許せない、そういう本の扱い方はありますか?

特になし。
083.“活字離れ”について、どう思いますか?

本を読む人もいれば読まない人もいる。それだけ。
084. 本を読まない人のことを、どう思いますか?

いつか読みたくなる時がくるかもしれないね。そのときはよろしく。
085. とりあえず、本を持っていないと落ち着かない。そんな癖がありますか?

ないです。
086. 世界中で、本の出版が禁止されたら、どうしますか?

別の世界に行こう。
087. 青空文庫を利用したことがありますか?

青空文庫というのは?
088. 電子図書館についてどう思いますか?

電子図書館というのは?
089. 将来的に、本という存在は無くなると思いますか?

無くなることはないでしょう。
090. 本が無くても生きていけると思いますか?

死にはしないが寂しい。
091. この人の薦める本なら読んでみたい、そう思う有名人を教えてください。

チャップリン
092. 映像化してほしい本はありますか?

ありません。
093. テレビ化・映画化で成功したと思う作品を教えてください。

映像は映像。原作は原作。そう思います。
094. 本の中に再現したいと思う(実際に再現した)場面はありますか?

ないです。
095. あなたにはどうしても読みたい本があります。その本は既に絶版・品切。さあ、どうしますか?

作者に問い合わせる。
096. 本という存在に対して、文句はありますか?

ありません。
097. 心に残っている言葉・名台詞は?(原典も明記してください)

彼女のあらゆる欠点に目をふさぐためには、彼女に惚れているというだけで十分だった。

マノン・レスコー』より

098. あなたにとって、本とおなじくらい蠱惑的なものは何ですか。

 睡眠。

099. 出版業界にひとことどうぞ。

本が好きな人達のことを大切にしてください。
100. つまるところ、あなたにとって本とは。

心の友!

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて

トピック「なぜ人を殺してはいけないのか」について

佐世保市で発生した女子生徒による同級生殺害事件を受けて、改めて注目を集め始めているのが「なぜ人を殺してはいけないのか?」という人の命に関する問題。はてなブログ内でもこのテーマが一つのトピックとして持ち上がっていたようなので、今回のエントリではこれについて考えてみたい。

「人を殺してはいけない」という感覚は社会の中で当然に共有されているとはいえ、そこに「なぜ?」という問いかけが加わると、途端に哲学的な難解さを持ち始める。

他者の人格や尊厳や将来を一方的に奪ってしまう「殺人」という行為が忌むべきものであることは疑いようがないが、その理由を歯切れよく見出すことは思いのほか難しい。

既出のブログにおいても、「なぜ?」の部分に明確な回答を出している人は見当たらず、むしろ「殺人は許されないが、その理由を答えることはできない」という結論にたどり着いているケースが少なくないように思う。「許されない」としながらも理由については「明確に答えられない」というのは理論の矛盾だが、完全な回答に至れない事情の一つには、やはり「戦争」や「死刑」といった社会的事実の問題がある。

日常の中で殺人を犯すことは紛れもない罪になるが、戦争になれば武力によって命を奪い合う状態が肯定されるし、死刑をもって罪人を罰することは司法によって肯定されるという世の中の構図は周知の通り。これらのケースを併せて考えていくと「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに答えるどころか、「場合によっては人を殺すことは認められる」ということの方が真っ先に証明されてしまう。

そうした観点から、「人を殺してはいけない理由などはなくて、殺人の善悪を人間が都合良く決めているだけだ」という結論を見出している人も少なくないようだ。事実、いわば「許される殺人」が社会に存在している事態のなかで「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えようとすることはやや不自然であるし、単に「殺人はいけない」と言われるよりも「結局は都合良く善し悪しを決めているだけ」と指摘された方が現実的ではないのかとさえ思えてくる。

今回の事件では、「命の教育が実らなかった」という見当違いな批評も出ているわけだが、人を殺して良いか悪いかという概念を教育でどうにかできると信じ込んでいる人達がいたということなのだろうか。大抵の人が人を殺さないのは、自分の中に人を殺してはいけないというモラルが確立されていたり、人を殺さない方が生きやすいという社会の構造に同意したりしているからであって、教育によって人を殺すかどうかを決めたという人は見たことがない。「命を大事にしよう」という趣旨のメッセージや授業は、すでに確立された価値観を再確認する程度の機能しか期待できない。

結局のところ、命が大事に思えるかどうかを決めるのは本人の意志でしかないし、いかなるルールや道徳が持ち出されようともそれが果たして殺人の抑止力になるのかはわからない。悲しいことだが、人を殺すという行為に心身ともに踏み切ってしまった人間を止めることは出来ない。だからこそ、「人を殺してはいけない」と訴える社会の中で殺人は突如として起こってしまうわけだ。

その意味で言うと、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を合理的に説明することができたとして、何か効力があるのだろうかという疑問が湧いてくる。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけは、できるだけ殺人が起こることのない平和な社会を目指そうという態度が含まれているのと同時に、いかなる道徳を重ねようとも時として殺人は起きてしまうという現実の裏返しでもあるのだろう。

 ただ、ひとつ救いがあると思うのは、少なくとも「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに関心を持っている限りその人は人を殺さないで済むだろうという点だ。

殺人を肯定することはないが、それを制止できない限界も払拭できない社会の中で「なぜ人を殺してはいけないのか?」を問うのはどこか虚しい話だが、今回「なぜ?」にあてはまる回答に挑戦した人達が、今後も「人を殺してはいけない」側の人間として生きてくれることを願いたい。